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【書評】(聖書)「この文は偽です」『キリスト教の創造』

2012/02/02 12:42

 

 
 「この文は偽です」
 これは有名なパラドックスだ。「この文は偽です」が正しいとすると、この文は偽だということになり、となれば、正しくないことになり、となると、正しいことになって・・・。
 
 本書のタイトルは『キリスト教の創造 容認された偽造文書』。著者は『捏造された聖書』、『キリスト教成立のの謎を解く』のバート D.アーマン。
 
 本書は『キリスト「経」の創造』のほうが良かったと思う。キリスト教の教典(いわゆる「聖書」のこと)は間違いが無いことになっている。また、そう信じている、あー、白い犬を見ても黒い犬だと言うような人も多い。キリスト経には筆記ミスや改竄された文書などが含まれる。本書はその中で偽造に焦点をあてている。
 
 著者の説明によれば広義の偽造文書には以下の三通りがある。
1. 偽造とは言えないが、同名の人が書いた文。例えば聖書にはユダという人が何人も出てくる。当時は姓が無かったので時間が経てば混同されやすい。イエスを裏切ったユダとは別人のユダが、告白文書を残したとしよう。後世の人がこの告白文書はイエスを裏切ったユダのものだと誤認したとしても作者には科は無い。が、はイエスを裏切ったユダのものだと聞いて読んだ人が、そうでないと知ったら騙されたと考えるだろう。
 
2. 「偽りの著者名が冠された」文書
 これには二種類ある。
2-a. ペンネーム
2-b. 著者名を騙ったもの
 
3. 後世の人が誤って作者を同定したもの
 キリスト経では『マタイによる福音書』などがその例だ。『マタイによる福音書』のどこにも著者マタイと書かれていない(そうだ)。『マタイによる福音書』の真の作者には騙す意図は全くなかったのだが、マタイによるものでないと読者が知れば有難味は減じる。
 
 キリスト経にはこのように間違った著者名が冠された文書が多数含まれている。学者とは気の毒なもので、真実を知ってしまうものだ。キリスト経の学者なんて、キリスト教の信者が多数だろうし、信者ではなくとも、信者の圧暴力を考えれば、おぞけがつく。自身の信仰の維持と身の安全のため、なんかして「偽造」という言葉を避けようとする。が、本書の著者アーマンは違う。
 
 初期のキリスト教は多くの対立や敵があった。
 敵としては、母体であるユダヤ教や、ユダヤ教とキリスト教以外の異教。
 対立としては、キリスト教内部の宗派対立やキリスト教はユダヤ人のみの宗教とする一派とユダヤ人以外に布教すべきだという一派の対立などがある。
 以上の各々が自派が有利になるように使途の名を騙って文書り権威付けをした。勿論、「聖書」には「嘘はいけないよ」と書いてある。偽造文書の中には、「偽造文書に騙されるな」と書かれているものものあるそうだ。「偽造文書に騙されるな」と「聖書」に書かれているにもかかわらず、学者の中には、当時は偽造は悪いことではなかったと主張する人もいる。
 
 偽造の根拠は次のようなものだ。義務教育が無かった当時、イエスやほとんどの使徒は文盲だったと推定される。彼らはアラム語(おそらくアラム語だけ)を話した。なのに、キリスト経の文書はギリシア語のキリスト教教典を基に、ギリシア語の修辞法を用いて書かれている。なお、イエスが文盲だということを悲しんだ後世の人が、イエスは文字を書けたとする一文を挿入した。これは有名なシーンだ。イエスのもとに姦通罪で捕らえられた女をユダヤの指導者がつれてきた、姦通の罰はモーゼの律法では石打ち。これには罠がしかけられていた。イエスが律法に従えば、彼が説く「赦しと慈悲」に反する。放せと言えば律法に背くことになる。イエスは地面に字を書きながら「汝らの中、罪なき者、まず石をうて」(『ヨハネの福音書』8.1-8.10 古い『ヨハネの福音書』にこのエピソードは無い。本書p278によれば、文体が著しく異なるし7章から8章の流れを阻害している)。p187
 
 著者はイエスはエッセネ派だったのかという質問を受けるそうだ。『解き明かされた死海文書』(ゲザ ヴェルメシ 青土社 2011)と読み合わせると興味深い。
 
 本書p293には、イエスは実在しなかったという説が盛んに提唱されているそうだ。道理で最近、イエスの実在は確かだという言説が散見されるわけだ。
 
 
[トリビアなど]
・七十人訳聖書 72人の学者がエジプトに派遣され72日間でヘブライ語の教典をギリシア語に翻訳した。出来上がった72の翻訳は一字一句の違いも無く同一だった。p36
・パウロとセネカの往復書簡も偽造された。後世のキリスト教徒がパウロが存命中に無名だったことを悲しんだためと思われる。この中でネロもパウロに感心したとセネカが書いたことになってる。ネロの所行を考えると笑える。p108
・イエスの教えのうえに築かれた宗教ほど、争いへの傾向が甚だしい宗教は、人類史上他に例を見ない。イエスは、言葉通り、本当に剣をもたら(『マタイによる福音書』10.34)したのだ。p170
・ピラトがイエス処刑の件を皇帝クラウディウスに報告した文書も偽造された。(処刑当時の皇帝はティベリウス)p182
・(著者の考えでは)四つの福音書はいずれも一次証拠ではない。伝聞。従って、おそらく、名を冠された使徒が書いたものではない。p264
 
[ミスなど]
p256 オプラー(オプラ ウィンフリーのこと)
 
 
『キリスト教の創造』(バート D. アーマン 柏書房 2011)
 

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コメント(2)

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2012/02/03 00:24

Commented by Tom さん

聖書を座右の銘とする者として実に興味深い貴エントリー感謝致します。
イエスは実在した歴史上の人物とされ私のイエスの理解もそれです。
イエスが人間であるのならイエスは神であったとする考えに自己矛盾がある。
しかし、神が人間になったとの教えには矛盾だと判断できない所にagnostic(不可知論的)な思考が生まれます。
そして神は人間には理解出来ないものとの命題がうまれますがagnosticismは即無神論にはなりません。

http://en.wikipedia.org/wiki/Agnosticism
にTypes of agnosticismがあり、不可知故に神の存在はないとする考え、逆に不可知故にあるとする考えや、不可知である故に誰も信じてはいけないとのstrong agnocismもあるそうです。
バート D アーマンさんも基本的にその考えのように思えます。
私はSpiritual Agnosticを支持します。

 
 

2012/02/23 20:56

Commented by Tom さん

訂正:誤>座右の銘と⇨正)座右の書

 
 
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